今週の一曲
「新世界」
中村一義
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どうも。夏ももう終わりですね、斎藤です。中村一義の新曲「新世界」を聴いて、寂しい気持ちになりました。この曲、ぼくが好きだった彼のいいとこが無いんです。彼の曲の魅力って、安っぽい電子音、ノイズギター、アコースティックギター、ストリングスとか色んな音がゴチャゴチャに絡み合ってて、どの音も主張してるんだけど、不思議と統一感が取れているところだと思うんですよ。(「ジュビリー」なんかがそんな“統一感のある混沌”の典型&最高傑作)
それが今回は、ノイジーなギターのゆったりとしたストロークが中心の最近のロックバンド風の普通のバラードなんですよ。中村一義である必然を余り感じない。
何でそんなことになったのかな?って考えてみたところ、ここ数作続いているバンドスタイルのせいではないかと気付きました。
“宅録の人”として名を馳せていた中村一義が、2作前の「キャノンボール」から「百式」(金色のやつとの関係は不明。)というバンドを中心に音を作ってるんですよ。今までも、完全に一人で全ての楽器の演奏をしていたわけではないのですが、バンドとしてのクレジットに入ったのはそれからです。
「キャノンボール」自体は中村一義が今までやってきた感覚をバンドにうまく落とし込むことに成功して、いい曲に仕上がりましたが、前作の「セブンスター」、そして近作「新世界」はだんだん中村一義の個性・魅力がなくなってきた気がします。“独り”で、一つ一つ音を作りこんでいけば、自分の思い通りの曲ができる反面、自分個人という枠の外へ出ることができません。逆に、バンドという形式であれば、仲間と“一緒に“作ることで、一人ではできない発想が生まれますが、メンバー個々の個性は薄くなってしまいます。
宅録がベースだった頃の傑作「ジュビリー」から「キャノンボール」まで約1年空いているんですが、その間に彼なりに自分独りでやる限界みたいなものを感じたのかもしれません。(間にインディーズから1曲出してるんですけど、バンド以上に大人数が参加している、スケール大きい曲です)ただ、中村一義は“一緒”に曲を作るのではなく、思い通りになるように“独り”で一つ一つ作りこんでいく方がいいもの作れると思うんです。
だから、次作はバンドと”一緒に“作るのではなく、あくまで自分が欲しい音をえる手段としてバンドを使ってくれたらな、と切望して止みません。
今週はそんなところで。
追記:文句ばかり並べてきましたが、 きらきらひかる星のデカールをやろう と歌い、CDにホントに星型のシールを付けたのはグー♪本人のアイディアじゃないのかもしれないけれども、そうゆう悪ノリは大好きです。
評者→斎藤 滋(24):一番好きな歌はスーパーカーの「Sunday
People」。言葉で激しく主張するのではなく、メロディ、アレンジ、詞が絡み合い、全体で“何か”を伝えてくれる曲が好きです。スガシカオの人の心の動きとシチュエーションを切り取る詞も好な一方、全盛期の小沢健二の暴力的なまでのキャッチーさにもひかれたりします。
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